善隣教 
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今月の言葉
みおしえ
 11.信仰と修行

<バックナンバー>
一.運命について
 1.運命の実相
 2.運命の理法
 3.心と運命
 4.生活と運命
 5.病と運命
二.生命について
 1.生命の業
 2.生命と愛
 3.生命と新陳代謝
 4.生命と縁
三.人生について
 1.人生の目的
 2.人生の価値
四.信仰について
 1.信仰の本質
 2.神と人
 3.信仰生活
五.みうた
 1.親心
 2.家族
 3.病
 4.善隣信仰
 5.人生
六.箴言
 1.心もよう
 2.処 世
みおしえ
 1.運命転換の道
 2.己に願う
 3.喜びは生命の糧
 4.心身のいとなみ
 5.慈悲と慈愛
 6.明暗と喜悲
 7.おかげと帰依
 8.人生の謎 
 9.神の説き給う道 10.人生の喘ぎと
    神の喘ぎ
 
みおしえ

11.信仰と修行

<信仰とは 愛の生活に励しむ行の一念そのものなり>

<修行とは 神の人を愛し給う愛を求め
  人の人を愛する愛の如何なるかを体験せんとすることなり>

 人間にとって何がいちばん辛いかといえば、それはなんにもする事がなく、なんの目的もなしに生きることでありましょう。
 無病息災でなんの不自由もなく生きていけたらさぞかし安楽で幸せだろうと思われますが、実際そんな身分になったらそれはけっして安楽でもなければ、幸せでもないのです。
 考えようによっては、不幸病気に苛(さいな)まれている時の方が、苦難とたたかう気力が振い起こり、また実際にそれを克服しようと努力するところから人生に充実感がみなぎり、安逸無為(あんいつむい)の中で、萎んでしまう生命が生き生きと躍動するので、不幸病気であることの方が生きることに張り合いがあり、かえって生きがいが出てくるといえましょう。
 もちろん、当人にとっては、不幸病気を人生を充実させる活力素といった次元で捉える余裕などありますまい。が、しかし、人生は苦しむのが当たり前と割り切ってしまえば、少々の事は辛抱できるし、苦は楽の種とかえってはげみが出てきます。
 御聖経にも<人生は苦悩なりされど一度び道を知らば憂苦は晴れ光明となる>と示されていますが、その人生を苦悩ではなく快楽だと考えるようではとても苦しみには耐えられません。
 そこで、大切なことは、苦しむのが当たり前だという人生のきびしさに目覚めることです。
 この自覚の上に立って、いわゆる人生苦の不幸病気とたたかっていけば、そこに自ら生きているのだという深い自覚が湧いてきます。
 そこで問題は、苦難に遭遇する運命そのものより、その苦しみを分かち合える相手がいるかいないかということです。
 苦しみを分かつ人がいない、その上苦しみに立ち向かってそれを乗り越えるための生きがいをも見うしなっているとしたら、それはもう悲惨としか言いようがありません。
 人間は生身なので病気にもなれば、不幸にも見舞われます。
 人間同士の関わり合いの中で、反目していがみ合い、対立して抗争するなど、とかく人間はさまざまな葛藤に巻き込まれます。
 完全でない人間のいとなみにそうした苦しみが生まれるのは当然のことです。ですから楽をしようと考えなければ、そうした苦しみには耐えていけるし、前にも申しあげたように苦しみによって人生の充実感が呼びさまされ、不幸病気から新たな生きるカが生まれることにもなります。
 では、人間にとってほんとうの苦しみとは何でしょうか。
 それは苦を分かち合う相手のいないことです。
 もっとも、これは苦しむときだけのことでなく幸せについても同じことが言えます。
 たとえば、世にもすばらしい景色を眺めたところでひとりでは味気ないものです。
 自分の望みのものを手に入れたとか、願い事が叶ったとかでどんなに満足したとしても、その喜びを分かち合う相手がいなければほんとうの喜びとはなりません。
 つまり真の意味での満足とか幸せは、苦楽を分かち合う相手があっていとなむ愛の生活の中にあるのです。
 ところで、この愛というのがなかなか複雑で互いの思いが相通ずれば問題ないけれど、通ぜずして誤解を生ずることもあって、愛の生活にはいろいろな葛藤がつきまといます。実は愛の生活故に起こるそれらもろもろの葛藤を修行によって克服し、精神の高まりにまで昇華させ、より深い愛をみがいて身につけていく・・ここにほんとうの信仰があるのです。
 夫は常に妻の支えを必要とし、妻はまた夫をたよりに生きる、つまりお互いが求め合い、ふれ合う魂の中から生きる喜びをつくり出していく、そのためには人生のあらゆる苦楽を分かち合って生活しなければなりません。
 夫のために生き、妻のために生きるのだと素直な考えで、最も身近かな人を生きがいの対象として懸命に人生の課題と取り組み汗を流す、そしてその汗をお互いが拭い合って愛の生活にいそしむこと・・それが人間の修行の道であります。
 そのあるべき姿として、御神尊様は<信仰とは愛の生活に励しむ行の一念そのものなり>とのみおしえをもってお示しいただくのであります。
 更に<修行とは神の人を愛し給う愛を求め 人の人を愛する愛の如何なるかを体得せんとすることなり>と“みおしえ”たまわっています。
 これは、求愛より施愛に生きる信仰の本筋をさまざまな実生活の体験の中でしっかり身につけること、それがほんとうの修行の道であるとお示しくださっているのです。
 人生は修行、それも愛の生活の修行だと言い切ることができます。
 修行といえば、なぜか苦しみに耐えることだといった考えが先に立ち、難行苦行が修行であるかのように錯覚し勝ちです。
 しかし、修行はかならずしも苦しむことではないし、自分を痛めつけてそれに耐えることでもありません。
 私たちの修行は肉体的な苦しみとは関わりなく、孤独の中に身を置いてその中から神の愛を感得し、生活のなかで人の愛を身につまされて体得していくことです。
 ただ耐えるだけの練習を積み重ねて肉体の限界に挑み、それを乗り越え克服していくだけならスポーツの世界にはそれをやっている人がいくらもいます。チャンピオンになるほどの人はみなきびしい錬磨を積むわけですが、それと宗教的修行とはまったく次元が違うのです。
 信仰的修行とは、言うまでもなく愛の生活にいそしむなかで真実の愛すなわち神の愛に触れることです。
 神の愛は絶対愛、相手の如何にかかわらず注がれる無償にして永遠の愛。これに対して人の愛は相手によって左右される相対愛、報いを求める剰那(せつな)の愛です。
 この二つの愛・・つまり神の施愛と人間の求愛の何たるかをわきまえ、求愛より施愛に生きる精神を体得するため生活の中で行を積み、信仰をみがき高めよ・・とお示しいただいたのがこの“みおしえ”であります。
 よくよくこのみおしえの真義を理解し、あなたの信仰の高まりを妨げている自我の殻を脱ぎ棄て、神に通う魂への昇華を目ざしていっそう信仰に精進しましょう。

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