善隣教 
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今月の言葉
みおしえ
 10.人生の喘ぎと
    神の喘ぎ

<バックナンバー>
一.運命について
 1.運命の実相
 2.運命の理法
 3.心と運命
 4.生活と運命
 5.病と運命
二.生命について
 1.生命の業
 2.生命と愛
 3.生命と新陳代謝
 4.生命と縁
三.人生について
 1.人生の目的
 2.人生の価値
四.信仰について
 1.信仰の本質
 2.神と人
 3.信仰生活
五.みうた
 1.親心
 2.家族
 3.病
 4.善隣信仰
 5.人生
六.箴言
 1.心もよう
 2.処 世
みおしえ
 1.運命転換の道
 2.己に願う
 3.喜びは生命の糧
 4.心身のいとなみ
 5.慈悲と慈愛
 6.明暗と喜悲
 7.おかげと帰依
 8.人生の謎 
 9.神の説き給う道
 
みおしえ

9.神の説き給う道

<吾れ汝等を幸福の山へ登らしめんとするにあらず
  吾れ汝等に幸福への道を説かんとするにもあらず
   人間斯くあらざれば生きるに生きられずと説く>

 この<みおしえ>には宗教の救いの本質が示されています。
 結論的に申しあげると、そもそも宗教は人間の欲望を満たす手段ではなく、親なる神がわが子人間に神の心を伝え「わが子よ斯く生きよ」と、神の子としての生きる道を説き示されるいわゆる霊的伝承を目的としています。
 これが宗教の救いそのものです。しかし、本来の目的がそうであっても、宗教を信奉するのは民衆ですから、かならずしも人間の生きる道というような高い目的を認識しているわけでも自覚しているわけでもありません。
 学を修めた人、そうでない人、非常に欲望の強い人、割と無欲恬淡な人、あるいは現在特別困っている人、宗教に救いを求めるほど苦しんではいない人。それこそ人さまざま、考え方も境遇も千差万別です。ですから、人それぞれの宗教への関わり方が違うのは当然のことでありましょう。
 ところが、そうはいうものの、大方の人が宗教の門を叩くきっかけは何かといいますと、大半は貧・病・争ときまっています。
 経済的な悩み(貧乏)とか、肉体的な苦しみ(病気)、あるいは人間同士の争い、つまり心身の苦悩と人間関係のしがらみに痛めつけられ、すこしでもそうした苦しみから脱がれたいという欲求が宗教に心をかたむけるきっかけになっています。
 もちろん、貧・病・争以外の動機、つまり「人生とは何ぞや」といった深遠な哲学的命題を抱えて宗教と取り組み、回答を引き出そうとする人も中にはありますが、それはほんのわずかなひとにぎりの人たちです。
 さて以上は、どのようにして宗教にかかわりを持つか・・ということを人間の側から考えたのですが、それとは別にもうひとつ、宗教の側、神の側から、何故に人間の信仰心を啓発し、喚起しようとしているかを考えてみる必要があります。
 実は冒頭に示した<みおしえ>がその疑問に対する回答なのです。
 「汝等を幸福の山へ登らしめんとするにあらず」また「汝等に幸福への道を説かんとするにもあらず」というこの教えに接して、これはおかしいと期待はずれの感を抱かれる方も少なくないと思います。
 善隣教にまいれば病気が治る、幸せになれると信じておられるあなたにとって、「幸福の山に登らしめんとするにあらず」との神のお言葉は意外に思えるでしょう。もっともこれだけなら、「幸福の山へは自力で登れ・・という逆説のおさとしだろうから、登る道すじくらいは聞かせてくださるのだ」と解釈することもできます。しかし次の「吾汝等に幸福への道を説かんとするにもあらず」と続くみおしえによってポンと突き放されると、これはもう混迷せざるを得ません。
 では、この<みおしえ>の真意はどこにあるかということになりますが、結局これは、私たちの信仰が、神からいただく幸福、健康という結果だけを求めるご利益信仰であってはならないということなのです。
 病気が治り、事情が解決して助かった・・それはあくまで結果にしか過ぎません。そうした結果とは関係なく神の子人間にはどんなことがあってもかならず踏み行わねばならない道があります。とにかくその道を歩かねば生きるに生きられない、その道を歩いてはじめて人間としての存在価値がある。その道理を説いて聞かせるから、幸福、健康を求める欲望を離れて先ず人間の行くべき道を悟れ・・と御神尊様は仰言(おっしゃ)っているのです。
 ところで、人間誰しも欲があるからどうしてもご利益を求める。その強い欲求を満たしてやることによって、人間を宗教の世界にみちびくという方便が用いられてきた。つまりそれほど幸福、健康が欲しいなら授けてやる、だが、望みを叶えて欲しかったら、定まった道を歩きなさいというわけです。それについて江戸時代にこんな小噺があります。
 さる殿様の行列が江戸の日本橋を通りかかった。きらびやかなその大名行列を、老いたる母にひと目見せてやりたいと、孝行息子が母親を負うて橋のたもとにうずくまっていた。それがお目にとまって、殿様はさっそく「世にも感心な孝行者よ」とその息子にご褒美を腸った。
 ところが、そのことが評判になると、その殿様の行列が通るたび、道すじ界限の若者が猫も杓子も母を負うて沿道に平伏するようになった。中には褒美欲しさに嫌がる母を背中にくくりつけたり他家の老婆を借りてくるといった狡(ずる)い者も出てきた。
 そんなミエミエの詐欺行為を百も承知で殿様は側近の諌(いさ)めも退け、ひとり残らずそれらの若者たちに褒美をお与えになった。ところが初めは賞が目的の偽孝行だったのが、やがて若者たちを目ざめさせて、殿様の行く先々に孝養の風潮が定着し、ほんとうの孝行者ばかりになった。
 この寓話から訓えられるもの、それは、たとえ貧・病・争が動機で宗教の門をくぐっても福のおかげをいただけるということです。だから宗教的にいろいろ方便が用いられるのもうなずける。が、それはどこまでも手段であって、目的ではありません。人間らしい心の使い方、人間らしい行いを通して人と人との間に思いを通わせ。人の事を我が事のように考え、我を愛する如く人を愛することのできる人間にまで自分を高めていく、つまり親なる神の願っておられる人間になる・・ここに宗教の根本があり、それがすべてでもあることを確りと認識しておかねばなりません。
 思いやりのない人間が、人の苦しみを我が苦しみとし、人の悲しみを共に泣ける人間になる・・これが信仰本来の目的ですが、それを忘れてつい本来の目的を見失い、誰も彼も闇雲に幸福の山へ登ろうとし、やたら幸福への道を探し求めます。
 それではいけないから、神の子としての霊性に目ざめなさいと御神尊は「斯くあらねば生きるに生きられない道」をお示しいただくのです。
 ここで「生きるに生きられず」の中の“生きる”に大きな意味のあることを考えてみたいと思います。
 この生きるとは、結論的に申しあげると、今現在を神の子人間らしく生きて永遠に生きるという意味です。
 どんなに幸福を願い、健康を求めても、人間は常に“生あるものは死す”のさだめのもとに生きているのですから、死の問題、死に方の問題がついてまわります。私たちはそこから人生を見つめなければなりません。
 死によって人間は雲散霧消します。生命は消えて無くなります。しかしそれは肉体の消滅であって生命が存在した間の行跡はちゃんと残るし、そこにこめられた心は、魂という価値を持って永遠に消ゆることがない。つまり肉体は滅びても魂は永遠に生きているのです。
 ですから、“生きる”とは人間の奥深く眠っている神の子としての霊性に目ざめることです。
 人間の生命には限りがあっても、その生命の源の存在であられる神の大生命は永遠であり無限です。
 この永遠無限の生命をいただいて私たちは永遠の世界に生きる・・この生きるが<みおしえ>の中の生きるであることは言うまでもありません。が、それでは、生きるために斯くあらざればという、その「斯くあらざれば」をすこし掘り下げて考えてみましょう。
 <みおしえ>の中の「斯くあらざれば」は大きく二つに分けて考えられます。
 私たちは常に両親の慈愛に生かされており、そして自分もまた親となって子を育(はぐく)む、つまり親があって子が、孫が存在する人生三代の流れの中に生かされているのですから、決して自分ひとりで生きているのではないということが一つ。
 次は、この人間のタテの流れに対し、人に支えられて自分という人間が存在し、その自分の存在がまた人の支えとなっている。そのヨコのつながりが大きく場をひろげて家庭をつくり社会を構成し、人間は見も知らぬ多くの人たちと関わり合って生きているのだということ。この二つの関係をはなれて人間は存在し得ません。すなわち生きるに生きられないのです。
 したがって「人間斯くあらざれば」とは、孝養の念に目ざめて常に徳行を積み、その足跡を後代に残すという神の子たるの道を生きねばならない・・これが一つ。
 もう一つは、人に生かされて生きているのであるから我が身を思うが如く人を思い、人を愛して生きていかねばならないこと。いわゆる孝養の念と施愛の実践・・これが斯くあらざればの内容です。
 具体前には、毎日の析りを以て父母、先祖、神、そして天地自然とつながり、孝養の念をおしひろげつつ、不断の施愛を通して人とつながって行く。この二つの道こそ生命の存在である人間の絶対に歩まねばならない道である・・とお示しいただくのがこの<みおしえ>であります。

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