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みおしえ
5.慈悲と慈愛
<慈悲なき人生は悲惨なり 汝等今日より慈悲と慈愛に
汝の凡てを献げ尽くして生涯を楽しめ>
慈悲とは、あわれ悲しい運命に泣く人の涙に、情を通わせていたわり、なぐさめ、共に泣く心であります。言い換えれば“抜苦”という、苦しみを取り去ることです。
さらにまた慈悲とは喜びのない者に喜びをあたえることですから、これを“与楽”といいます。
つまり慈悲とは“抜苦”と“与楽”のこころです。
人生には辛いこと、佗びしいことがいっばい。そのあまりの惨めさ虚しさに、なす術もなく生きている人間の憐(あわれ)さはたとえようがありません。そうした悲しみの涙を止める手だては何でしょうか。それはどんな慰めの言葉より共に泣いてやることです。
共に泣いてくれる人がいる・・これこそ何ものにも優る大きな慰めとなります。したがって、共に泣く心が苦を取り除く道につながるわけで、慈悲の精神(こころ)の第一は何よりも先ず“抜苦”です。
共に泣いて苦しみを忘れさせ、然る後、喜びのない相手に惜しみなく愛情を降り注いで喜び心を喚びさまし、互いに手を携え希望に向かって進んで行く・・つまり身をもって喜びの世界へみちびくのが慈悲のもう一つの面である“与楽”です。
この抜苦、与楽の慈悲のこころを御神尊様は次のようにお教えくださっています。
<慈悲とは 何ものを与うるともけっして報いを求めない心>
実はここが肝腎なところで、慈悲とはいわゆる憐憫(れんびん)の情の現れなどと思ったらそれは大変な考え違いです。
愛するという裏には往々にして憎しみが温存され、潜在している場合が多い。したがって“施愛に徹せよ”と御教えにお示しいただきますが、本来、慈悲という精神は施愛の心そのものにほかなりません。抜苦、与楽にあらわしていく施愛の実践、すなわち無償の愛、これが慈悲の精神なのです。
人生は一度っきり、だからこそ己が心をみがき高めて慈悲に生きる・・そういう人生を築きあげねばならない。
それが楽しく生きる唯一つの道で、御神尊様が<慈悲なき人生は悲惨なり>と言いきっておられる由縁(ゆえん)です。
もちろん、この教えの意味するものはより深いところにあります。貧乏に痛めつけられ、病気に苛(さいな)まれ、人との争いの中で孤独に泣かねばならない不運不幸の憐さより、人を愛することのできない、つまり慈悲に生きることのできない人間こそ憐を通り越して悲惨の極みだとお教えくださっているのです。
たとえば、ここに半身不随で苦しんでいる人がある。そして、自分をこよなく不幸な人間だと思いこみ、世を怨み、運命を呪って生きているとします。たしかに思い通り体を動かせないのは不自由ではありますが・・。
しかし、それがそのまま不幸だと言い切れるかどうかです。
御神尊様は<不幸な人間とは慈悲に生きることのできない人間>だと仰言(おっしゃ)っています。
これは、たとえ身は不自由であっても、その不自由さを味わうことによって、かえって人を憐む愛情が肥え、我を愛するが如く身から心から人を愛することができれば、その人は肉体的には不自由でも精神的には自在で豊かな人生を生きることができると教えられているのです。
結局、そもそもは幸、不幸に対する価値観に問題があるわけです。
長い人生という次元に立って見つめてみれば、人生のほんとうの値打ちは貧富や貴践、健弱で決まるのでなく、いかに人さまのため尽くし、いかに人さまに喜ばれる人間であるか、それによって決まるのです。
御神尊様は、<慈悲なき人生は慈惨 慈悲に生きる人生こそ最高の幸せ>とみ教えいただきますが、その境地に到達するにはそれ相応の信仰的修行を積まねばなりません。その修行とは言うまでもなく、人と共に泣き、喜びなき人に喜びを与える抜苦、与楽の慈悲の心を培い養うことです。
報いを求めぬ高い精神的境地を目ざして人格完成に汗を流しましょう。
>>>>> 次回は、「みおしえ 6.明暗と喜悲」です。 >>>>>
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