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二.生命について
1.生命の業
(1) <世に知る事多しと雖(いえど)も 我を知るより大なるはなし>
身につまされて、気にかかることは自分の運命についてですが、人の運命ならばいざ知らず己が運命の鍵は自分自身が握っているのです。
対象に心を奪われて、それに向かう自分を見失っては真実を見ぬくことはできません。
我(われ)を探究すると、有一無二の個性的な面と、一切の存在に貫いている普遍的な面とがあります。つまり考え方や生き方そして喜怒哀楽の感情的反応などには個別性がきわだっていますが、本質において生命存在は共通の法則のもとに生きているのです。しかして我(われ)を知るには「生命のいかなるか」を探究しなければなりません。
善隣の道、それは我(われ)を知る道であり、生命のいかなるかを知る道であります。
(2) <生きていると思うは愚かなり 生かされていると思うぞ誠なり>
結論的に言えば我(が)への執着が不幸の発生原因です。この我執の念は「自分の力で生きている」と思う増上慢から生まれています。
ひと呼吸、一脈拍にいたるまで自分の力ではありません。生かされておればこそ、生きてゆけるのです。生命(いのち)に感謝できずして、何に感謝するというのでしょうか。また、感謝の心がなくては生命の真実がわかるものではありません。
(3) <親のおかげ子のおかげもさることながら
人間生命の根源は天なり地なりと知る者はその永遠や楽し>
生命の源としての存在を親と言い、育て主を親と言いますが、いわゆる父母だけが親ではなく、「親は無くても子は育つ」のことわざのように、天地自然さえあれば人間は生きてゆけるのです。この自然を人類は自らの手で破壊しているのですから愚かなものです。
神を<天地大御親祖之神>と尊称しての信仰、それは天地大自然を尊崇する信仰であり、生命尊重の信仰です。これがひるがえって己が生命を大事にする道につながり、ゆるぎない幸福がそこから生まれます。<鳴呼 天は汝等の父地は汝等の母 この天地宇宙を創造し生成成育せしめ給ふ宇宙の源霊を神と称へ奉る>(聖経二十一節)・・天地宇宙を父母と感じる信仰、ここまでの高まりが御神尊とのご縁によって得られるのです。
(4) <汝は天地のものなり 天地は汝のものなり>
汝は天地のものなり・・しかるに天地にゆだねて生き、天地は汝のものなり・・天地のエネルギーを吸収して生きる、ここに他力本願そして自力本願の妙合する自他力一如の信仰があります。この信仰の要を握っているのが正しい「生命観」です。
(5) <天地の汝に生命を与ふるが如く汝も又生命の糧を万人に与へよ
汝の永遠や必ず楽しからん>
生命について哲学すれば、「何のために天地より生命を与えられたのだろうか」と生命の真の意味を考えさせられます。その答えは、万人に生命の糧を与えるため、ともに生かし合うために生命を授かっているという事になります。その糧こそ「愛情」です。
しかして<神は愛なり 生命なり>・・愛と生命に神を見いだす信仰こそ永遠の歓びを与えてくれるのです。
(6) <幽顕に透徹し自ら迷想を大観す>(教義第三条)
@<幽顕とは・・天地宇宙の現象世界は眼に見えざる幽力に依て現象したものである
ここに幽顕作用のある事実を発見しなければならぬ>
A<例えば夫婦の見えざる愛情(幽力)は夫婦の身体の行為行動に依り
子供という顕体を生み出すここに幽顕作用のある事実が発見される>
・・中略・・
B<故に汝よくよく幽顕の妙理を弁えて心と体の幽顕作用に透徹し
迷想を大観して幽顕の妙智力で人生を楽しめ>
生命の神秘を探究すると結局、幽顕の妙理に到達します。人間の眼は見える世界しかとらえませんが、直観力をもってすれば、現象の奥の本質を見ぬくことができます。
生命を肉体の見える次元だけで捉まえようとしたのでは生命のほんの一部だけしか認識できません。生命の機能作用から、生命の過去現在未来の流れ、そして生命を根源的につかさどっている霊の次元にまで探究の眼(まなこ)を向けなければ生命の実態はわかりません。
広くは大生命である天地宇宙の現象世界から身近な人間自身の小生命にいたるまで、見えざる幽力の顕れとしての生命のいとなみであります。一見すれば不可思議と思われる人間の運命的現象も、生命の真相をたずねてみるとその原因がよくわかります。
ただし直観力が弱いと何も見えません。その直観力をこやす道こそ信仰です。「信の一念」がどれほど強力であるかは筆舌では表現できませんが、ただすなおに信じる、生命の源霊たる神を信じる、それだけで生命の神秘がすべてわかります。いわゆる幽顕に透徹し迷想を大観することができるのです。
(7) <経は 1、本末の空間にあり 更に未だ来らざる無窮の彼方に向かう
2、故に経とは三界を貫く時間空間に付けた名
3、更に経とは 自然現象世界と 時間空間の本来の動的状態をいう
4、比処に至りて初めて経とは 無始より無窮の彼方へ向かって動き続け
進み続け 今もなお現に進み続けて止む事なく生き徹し生き続ける
天地の大生命大精神より聞こゆる天の声 地の声そのものである
5、故に経を経ずして天地のいかなるかに触れる事難しと叫ぶ>
結論から言えば、経とは新陳代謝の時間作用、愛の空間作用であり、生命の法則そのものです。さらに生命を深く究めれば、経とは切れることなく連綿と先祖から続いている生命の時間的流れであり、自然や人や家庭社会との霊妙なつながりの法則と力です。さらに経とは霊魂の輪廻転生も意味しています。
幽顕が生命の次元の妙理であり、経が生命の時間空間次元の法則です。この幽顕と経の原理法則にもとづいて「心は(幽)運命の(顕)製造者なり」のみおしえが示され、「切り替えを早く、明るく、理解と感謝と愛の生活」をと、教えられているのが善隣の道です。
(8) <神は汝等の為に汝等の生きるに必要な
「産霊力」「産霊出す力」「偕に生きる力」とを与へ生み給ひ>
(御聖経十二節)
この三大生命力を御神尊への信の一念で十全に発揮すれば、人間の生命と運命、そして人生が大転換し、生命の本質に目覚めた神の子としての道が開けてまいります。信仰に基づく生命観をさらに究めたいものです。
>>>>> 次回は、「二.生命について 2.生命と愛」です。 >>>>>
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