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五.みうた
1.親心
(1) <野に寝たり 山に寝る夜のさびし夜に 父母の姿の夢枕かな>
これは孝養の念あつく、「一人前にならんぞ」の道祖様の言葉を支えに二十年の修行の旅をお続けになられた御神尊様の深きご心情の発露するみうたです。
所は三重県伊吹山の山中で、樹海に迷いこまれた御神尊様が野宿の夢枕に立たれたご両親の指し示される道を下り無事村里にたどりつかれた時のみうたです。「人間は働いて食べて眠るから生きられるのではなく、父母の祈りに守られているから生きてゆけるのだ」・・孝養の念に生きよとのお叫びの源がここにあります。
(2) <世の中に我が子を思わぬ親はなし 親の心を知れよ人の子>
夫帰の縁は切れることがあっても、親子の縁は何ものをもっても切ることはできません。しかし現実には子供を捨てる親もいます。それは親心がそんなことをしたのではなく、親の中の悪鬼の心がそうさせてしまったのです。それが証拠に邪念がおさまってからは、生涯罪の責め苦を背負い続けるものです。子供は成長するにしたがい親から離れようとするものですが、親の心は変わりません。八十歳になっても「息子には私がついていなければ・・」と五十も過ぎた大人のわが子に、まるで幼児にでも接するような愛情を注ぎます。まさに親心は神心です。
(3) <親を知れ親の心を知りてこそ 神の心もわかるなるらん>
神は抽象的な超越者ではなく、身近な生命(いのち)の親様が真の神なのです。天を父、地を母と見たて、あるいはお日さまを父、お月さまを母と想う、この天地自然に親心を感得するのが善隣信仰の根幹です。
しかして父母の深き慈しみを知り、その恩愛に合掌する心に映る天地自然、まさに天地大御親祖之神のみすがたそのものでありましょう。
(4) <親心知らぬ子供の多けれど 子を思わざる親はなきなり>
幼児の頃は親の顔をいつも見つめていますが成長するにしたがい、親の顔などしみじみ見ることはなくなります。しかし親は生涯、子供の顔を見つめ身体や心の具合に心を配ってくれています。いわゆる慈愛の念を注いでいるのです。これが親の子に向ける祈りの念で、この祈りこそが我々子供の生命(いのち)の源泉なのです。「祈られて生かされている」・・この自覚で生き抜きたいものです。
(5) <孝行をしたい時には親はなし 親のあるうちつくせ世の人>
親の心は親になってはじめて実感できます。子供のことを心配し、子供に泣かされ、その心の痛みの中から、自分がどれほど父母の心を煩わせてきたか、思い知らされます。それでも親が居てくれている間はあいも変わらず親に甘えて親の有り難さを気付かない人もいます。そんな人は親が帰らぬ人となって、初めて、その恩に目覚め霊前に額づいて涙を流すのです。
後悔さきに立たず、です。親のあるうちに孝養の誠を尽くしましょう。
(6) <寝て居ても 団扇(うちわ)の動く親心>
電化時代の今日ではこのような風情(ふぜい)は見られなくなりましたが、うつらうつらと眠りながらも涼を子供に送る親心、まことに有り難いものです。
時代はどのように変わろうとも、親心は永遠です。信仰の第一歩は親より注がれている祈りの念への目覚めにあるのです。
>>>>> 次回は、「五.みうた 2.家族」です。 >>>>>
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