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みおしえ
3月 『喜びは汝のものなり』
弥生3月。春の陽射しを感じる季節になりました。
しかし、自粛生活は続き、心の底から喜べない状況に、何か不安を感じることも多いでしょう。
だからこそ、人間の知恵だけでなく、信仰の知恵で何とか乗り越えていかねばならず、私たち信仰に精進する者こそが、しっかりと〈善隣の道〉を腹に収め、その実践に励むことが肝心です。 そこで今月は、今のように混迷した最中、御神尊様が「八女百日御大行」を厳修されている時に、参拝信徒にお示しいただいた御教えを学んでいきたいと思います。
〈喜びは 汝のものなり
悲しみは 神のものなり と知りて
直ちに汝の悲しみのすべてを
神に献げて 神に救われよ〉
『御聖経』の最後の〈祈りのことば〉には、〈神よ 憐れなる我等を神の御園に導き給へ 迷ひ多き我等に悟りの道を授け給へ 心弱き我等に健康への糧を與へ給へ〉と示されています。
人には、それぞれ叶えていただきたい願いがありますが、願う前に、迷い多く心弱い憐れな自分であることをしっかりと弁えることが大切だと示されているのです。
その上で、「今日は少しでも霊性を高めさせていただきます」と謙虚な気持ちで神に祈り、御教えを実践していきさえすれば、必ず神は助けていただきます。つまり、本当に自分を磨いていく気持ちがあるかどうかを神は問われているということです。
なぜなら、喜びはあなた自身が感じても、悲しみの一切は神が背負ってくださるからです。まさに、「あなただけが辛く苦しい事を背負わなくていいんだよ」という神の御慈悲なのです。
そんな尊い神の存在に気づき、自分の悲しみや苦しみを神に預けることで、私たちは救われるのです。まずは、そのことをしっかりと認識しましょう。
〈神は 汝等の荷える悲しき心の重荷を
軽からしめんとして
汝等を招き給う 救い給う〉
かつて御神尊様は、レンガー枚一枚に私たちの苦悩を書き、その悲しい心を背負って「煉瓦の大行」を厳修いただきました。
今でも常に、私たちの心の重荷を少しでも軽くしてあげようと、その重荷を背負ってくださいます。だからこそ、「さらに善人たれよ」との気づかせの御慈悲なのです。
もし何かの事情に引っかかり、囚われてしまったのなら、すぐに御神殿に額ずいて報告し、心の重荷を取り除いてください。心を軽くするためにこそ、信仰を頂いているのです。
〈汝の荷える心の重荷は
汝自ら 是れを造りたり
この悲しき心の重荷を解くか 捨てるかに依って
神は その心の重荷のすべてを軽からしめ給う〉
私たちが担ってしまう心の重荷は、あくまで自分が造っているということを、まずは認識しなければなりません。
心の重荷の根本的な原因は何かというと、「我の念」です。自分の思いや考えに執着する「我の念」があるため、どうしても事情に匹われ、悩み、それが懊悩となって迷うのです。
したがって、人の事をいろいろと批判する前に、自分が囚われ執着している事は何なのかを、よくよく振り返り反省すること。
その上で祈りを捧げ、悩みのすべてを神に報告して、心の重荷である悩みを取り除くか、すべて捨て去ること。そうしさえすれば、すべてを神が背負ってくださり、軽くしてくださるのです。
〈不幸の重荷も 病気の重荷も
汝自身の意中にあり
故に 持つも捨てるも
汝の心次第に依る〉
すべては私たち自身の心次第。不幸も病気も、自分の考え方・捉え方次第で、どのようにも喜びに変えることができます。
今さらどうにもならない過去の事に囚われ、「どうして自分がこんな目に遭わなければならなかったのか」と心を痛め続けていれば、いつまでも不幸や病気の重荷を降ろすことはできません。
過去に執着せず、今、生かされていることに感謝し、「今日もありがたい」と喜ぶ心を養うのが信仰なのです。
〈不幸病気は
精神的新陳代謝をするか せざるかに依る〉
〈精神的新陳代謝〉とは、心(気)の切り替えのことです。
囚われ悩む心を一刻も早く切り替えるか、いつまでも切り替えきれずにいるか、すべては自分次第。
どうしても拭えないような事情に引っかかっていても、「切り替えて幸福健康になろう」と、しっかり決断し実践することです。
〈汝 神に救われんには
為にならざるもののすべてを
神に献げて 神に救われよ〉
自分の為になるかならないかの基準は、何なのでしょうか。それは、見て聞いて思って、喜べるかどうかということです。
見て聞いて思って喜べない、自分の為にならない事はすべて神に報告して献げましょう。必ず神は助けていただきます。
〈献げずして 神に救われんとする信仰は
労して 効なし〉
見て聞いて思って喜べず、心に悩みを抱えたまま、どんなに神に祈りを捧げても、決して救われることはありません。解くに解けない心のわだかまりのすべてを神に献げましょう。そうすれば、必ず神に救っていただきます。
〈言うて捨てるか 言わずして捨てるか
いづれかを避びて捨てよ 献げよ
今 神に救われん〉
言って捨てても、言わないで捨てても、どちらでも構いません。要は、本気で捨てる気があるかどうかということです。
神は、私たちの心中をすべて見抜き見透しです。囚われている神は救いを授けてくださいます。
〈神は 汝の悲しみの献げものこそ
喜び給う〉
ありかたいことに、迷いから生じる悲しい思いを神に献げれば、そのすべてを神は喜んで受け止め、祈り続けてくださいます。
コロナ禍の今、こうして御教えを授かることで、決して思い悩むことなく、執着せず、家族と偕に、人様と偕に、明るく楽しい生活を送れることに、深く感謝いたしましょう。
そうして、一人ひとりが〈神の子〉としての自覚をもち、さらに信仰に精進されますよう心から祈りを捧げます。
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