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教祖
力久辰斎(りきひさ たっさい)
力久辰斎教祖は1906(明治39)年10月28日、力久辰三郎(たつさぶろう)の二男として佐賀県佐賀郡久保田村大立野にて誕生。
父である力久辰三郎は、30代半ばより次第に透視能力者として知られるようになり、神道実行教力久教会を設立し、依頼者の相談に応じる一方、独自の行によって自らの宗教的世界を開拓した。
父辰三郎が亡くなった時、20歳の辰斎教祖は、父の50日祭を終えた12月8日に自身の宗教的使命の啓示を得て、力久教会の継承を決意。 |
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宗教家の道を選んだ辰斎教祖は、父辰三郎が41歳で宗教家になったことにちなんで、40歳までの20年間を「人間の運命探求」のための自己鍛練の修行期間とし、苦悩者の苦を追体験するために「無言の行」「目隠しの行」などを、次々に自身に課した。
1940(昭和15)年2月20日より、平戸・赤坂山で50日間にわたる「面会謝絶の行」を行い、47日目には宗教家としての自分の資格を問うために、巨松の樹上で一昼夜の「捨身の行」を行った。
この50日間の行を満願した辰斎教祖は、「神は汝の心中にあり」「愛なき家庭、愛なき社会は暗黒なり」「心は運命の製造者にして 生活は運命の製造所なり」という悟りを得て、祈祷中心の救済から教え中心の救済へと方向を変える。
1947(昭和22)年5月20日、佐賀県小城郡北多久村(現在:佐賀県多久市)に瑞鳳園精神修養道場を開き、同地での50日行中「聖経・善隣の園」の啓示を得て、1960(昭和35)年5月、福岡県筑紫野市原田の山中で「三百日鎮魂の大行」を行い、現在地の原田に本庁を定めた。
立教以来、辰斎教祖は、説教と同時に、毎月の祭典や講習会などで信者たちの「おすがり」を受けながら「即決の救い」を実践していくかたわら、行にも専念。
1977(昭和52)年9月29日、午前4時33分に帰幽。その後、「御神化(ごしんげ)」(神としての蘇り)された。
善隣教では、御神化された辰斎教祖を「御神尊様(ごしんぞんさま)」と尊称しています。 |
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